古市政郷顧問とのご縁の「ありがたき」

2021.08.20

Profile

代表取締役社長 磯部 昌美

1990年スキー場のリフト券発券システム「券作くん」を開発し導入。1991年に株式会社グッドフェローズを創業。

2021年6月、当社の顧問だった古市さんが80歳の誕生日を迎えられてグッドフェローズを退職されました。
最近は週1日の勤務ではありましたが、趣味の園芸や読書だけでは頭がボケかねないと、大阪の事務所に几帳面に出勤されていました。

ビジネスパーソンになってお世話になった方々は多数いらっしゃいますが、古市さんは、初めて私が会社で正社員として働き始めた時の、採用決定者であり上司であり、ビジネスのイロハを教えてくれた方です。

私は、30歳直前まで小さなバーを経営しながら、パートナーと二人でミステリー作家を目指していました。
学生時代に書いていた作品が卒業してすぐに出版された事もあり、まずは作家として生計を立てて、「いずれは若手売れっ子ミステリー作家にだってなれるのかな」などと思いながら、江戸川乱歩賞や横溝正史賞に応募する日々を送っていました。サントリーミステリー大賞の選考では、最終ノミネートまで進み、編集者と大賞を獲得するのに何が足りないのかと議論したこともありました。

しかし、何度チャレンジしても大賞には届かず、30歳を目前に一旦賞狙いの作家活動はパートナーに任せて、自身はバーを畳んで会社勤めをする事にしました。このままでは、にっちもさっちも行かなくなると危機感を覚えたのと、ちょうど下関出身の私が、田舎町に閉塞感を感じ大都会東京へ出たいと思ったのと同じ感覚で、バーの外にあるもっと広い世界を経験したいと思ったからでした。

大学の同期は皆、卒業と同時に誰でも知っている一流企業や役所に就職していたので、たとえ出遅れたとしても、就職くらい簡単に出来ると高を括っていました。

作家を一旦断念して、仕事をするならどういう業界に入ろうか、いろいろ悩みました。日々小さなバーの世界から社会を見ていたので、出来たら大きな物を売る世界で働きたいと思いました。その頃大きな物として思い浮かべたのは、身近な車か不動産くらいのイメージしかありませんでしたが、ふと、大きいかどうかはわからないけれど、コンピュータ業界も将来性があって良いのではないかと思い付き、ソフトウェア会社に応募してみる事にしました。

B-ingという就職情報誌を買って初めての就職活動を始めたところ、すぐにあるソフト会社に採用が内定しました。結構簡単に行けると大喜びしましたが、指定に従って受診した健康診断で肝臓の数値が異常値を示しているという事で、内定はあっさり取り消されてしまいました。バーのマスターとして毎晩シェイカーを振り、結構な量のお酒を切らさず飲んでいたので、γGTPなどが高い数値を示していた訳ですが、特に病気という程の症状もありませんでした。

健康診断で落とされた事が、ビジネス社会からの拒絶と感じられ、ちょっとショックで、呆然としたのを覚えています。盆と正月以外に帰省した事はありませんでしたが、何故か無性に親・兄妹の顔を見たくなって、半月くらいだったか、故郷に帰ってぼんやりしていました。

そうして、少しずつ元気を取り戻して、もう一度就職活動する事にしました。私は成功だけを信じて突き進んで行くタイプの人間ですが、ちょっとした挫折に自信を失っていたので、今度は何とか会社に潜り込もうと念入りに会社調べをして、ある会社の面接に臨みました。

その面接で、面接官として現れたのが古市さんです。履歴書を見ながら30分も話をしたでしょうか。「君いつから来れる?」「はあ、今、無職ですから、明日からでも」といったやり取りがあって、週明けから出社する事で採用が決まりました。「あのー、健康診断で最終合否判断するのではないのですか?」と神妙に聞いてみると、一応決まりなので受診して貰うけど、それでどうこう変わる事はないという返事です。会社が変われば、判断基準も変わるんだと変に感心して、めでたく就職が決まりました。

その日から、私はtdi情報技術開発株式会社という会社の営業員として、ビジネス社会の一員となりました。古市さんは、住友商事の機電本部で大型クレーン等をセールスして来た商社マンでした。ですから、ソフトウェアの事には詳しくありませんでしたが、当時の扇谷社長が役人時代に一緒に仕事をして来た縁で、請われて未経験のソフト業界に入って来ていました。その頃のtdiは、ソフトウェア開発会社と言っても、派遣業務中心の企業でした。そこに、自社製品を持ち、派遣企業から商品開発型企業に脱却するというミッションを受けて、商社マンの古市さんが転職してきたのです。ですから、私が就職したのは、出来てまだ日も浅い製品営業部という部署でした。
製品営業部と言っても、売る製品はまだありませんでした。

社内で開発したプロダクトとしては、USCOPという汎用機の運用ツールと、ISSGというスクリーンコードジェネレータなるものがありましたが、あくまで内部使用ツールとして内製したものですから、製品需要があるのか、販売するとすればどれほどの価格で売れるのか、まずは市場調査から始めるしかない状態でした。

当時の汎用コンピュータはIBM全盛時でしたから、IBMからユーザーリスト情報を貰い、400本ほどのDMを送付し、毎日毎日電話をかけて、話を聞いていただける事になれば、遠くまで一人で出掛けて行きました。
2つのプロダクトの内容はある程度理解できましたが、コンピュータに詳しい訳ではないので、突っ込んだ話になると直ぐに襤褸が出ます。そういう場合は、開発担当SEに同行して貰って補足説明をお願いしました。
それが、古市部長と私が初めて取り組んだミッションでした。しかし、DM送付先全てに連絡しても1式も売れなかった為、このミッションは半年ほどして市場調査報告書提出という形で完了しました。
それ以降、古市さんとは沢山の案件を追い続け、上手くいったものもあれば、失敗に終わったものもあります。毎晩、単身赴任の古市さんが住んでいた中野坂上の駅近くの居酒屋で、戦略会議を続ける毎日でした。

その後、古市さんも私もtdiを辞し、別々のビジネスをやっていましたが、15年程前だったか、古市さんがグッドフェローズの仕事を手伝ってくれることになり、こうやってまた一緒にやってきました。
私の父は国鉄職員でしたが定年は55歳でした。最近では、定年は60歳から65歳まで延びつつあり、70歳まで働く人も珍しくありません。しかし、80歳まで常に貪欲に働いて来た古市さんには、感動すら覚えます。

80歳過ぎても、どうぞいつまでも働いてくださって良いですよ、とは申し上げましたが、やはり通勤の移動が堪えるということで、80歳がちょうど良い区切りとご自身で退職を決められました。
グッドフェローズが、いまこうしてあるのも、GFの設立発起人として古市さんの協力があったからこそです。

ビジネス任期の満了に、おめでとう、そして「ありがとう」とお礼を申し上げたい。

最後、心行くまでビジネス人生を全うされた古市さんに万歳、バンザイ、ばんざい!!!
どうか100歳超迄、健康で楽しい人生をお送り下さい。